2005/02/01UP


見出しの効果

 新聞記事が何でできているか。答えは簡単。まずは原稿、これがなければ紙面に 白紙の落書きコーナーを作ることにもなりかねない。それから写真。音を伝えることはできないけれど、時に動画映像よりも臨場感あふれる情報を伝え、ものによっては不出来な原稿さえも補ってくれるメディアの要。この二つが要素ではあるけれど、これでは情報、データの域にとどまる素材にすぎない。これらを「新聞記事」の体裁に整えてくれるのが、「見出し」の効果だ。◇記事の根幹部分を抜き出し、数百行の原稿の意図をわずか数文字に凝縮、表現する「見出し」。これで記事の方向性が固まるといっても過言ではない。コップ半分の水を表現して原稿にした時に、「もう半分もなくなった」とするか「まだ半分残っている」とするかで、読者の印象は180度異なってくるだろう。それだけに、新聞社では私たち「外勤記者」が書き、撮影したものに見出しをつける「整理記者」という専門職が分業して新聞製作に当たっている。◇この分業がうまく機能すれば良いのだけれど、そこは人間の所行。 時に齟齬が生じることもある。かつて、盛岡から八戸までの新幹線延長が決まった際の原稿に噛みついたことがある。本文では「盛岡以北に延長」としたものが見出しは「盛岡以遠」。「北」と「遠」。たいした差ではないかもしれないけれど、東西南北の方角なら緯度、経度という客観的な尺度で図れるから良い。でも、遠い近いはなにがしかの起点がなければ図ることはできない。「遠い」の起点が「東京」を基準にしているような気がして、どうしても納得いかなかった。何事も東京中心。日本地図に重なる同心円上の外周は、「遠い存在でしかないのか」と。◇当時、入社数年の若手記者の話なんて通る訳もなく、翌日の朝刊にはそのままの見出しが踊った。新聞を開いた時の屈辱感、敗北感は今も心に刻みついて癒されない。見出しの効果。その重みを、我が身を通して思い知らされた。もちろん、見出しの出来は、概して記事の仕上がりに比例する。適切な原稿には、基本的に的確な見出しがつくものだ。二度とあんな苦みを味わうまい。担当の整理記者の顔を思いながら、今日も言葉の取捨選択に冷や汗を流している。